秋は何かが始まる予感のする季節。それ、春の方じゃないの?とも思うのですが、春に希望を感じるのは20代位までかなー。人生もこのくらいの歳になると秋こそ旅立ちたくなるものかな?どこへって、まさかあの世?
いえ、全ての人の旅路の行き着く先は死。どこへ向かうべきか、ということが見えて来たということでしょうか。
この頃思うのですが、死は悲しいものでも恐ろしいものでもなく、一種の変容に過ぎないのでは。それと同じタイプの変容を誰しも皆生まれ出てくる時に体験しているのにコロッと忘れているだけ。ここに来るのがイヤでイヤで、生まれて来てしまった時には大声で泣いたこの世だというのに、いつの間にか離れるのが恐ろしいとまで思い始めているとは住めば都とはこのことだなー。
それと最近気付いたのですが、死ぬってことはこの世との別れというより先に、自分との別れなんだ、ということ。猫ばっかり拾って、パソコンとイラストが好きで、シェフが好きだった自分を見ることがなくなるということなんだなー。
あ、別に死を予感させるような何かがあった訳ではありません。ただ、このように少しずつこんなことを考えながら、人は目的地に近づいて行くんだなーと思うだけ。
今日は相も変わらぬ猫の世話に加えて、このところずっと続く雨不足で庭木が枯れかかっている母屋の庭に水を撒いたりして、早朝から昼のニュース前まで表をかけずり回っていました。
その庭にはスプリンクラーが敷設してあり、昔は夏には毎日大量に水撒きしていたのですが、そうすると雑草が生い茂り、今度は草取りを頼まなければならない、そんなムダ金は出すのはやめよう、ということで、ここ数年スプリンクラーは封印されていたのです。
で、スプリンクラーの蛇口がどこにあったのか、雑草や土に埋もれて発掘しないと見つからない。見つかってもフタを開けてみたら中の蛇口がまた泥やダンゴムシに埋まっている。またまた発掘。
蛇口を全開すると埋設してある配管には問題なしと見えて、乾ききった庭のそこかしこに豊かな泉が噴き出しました。スプリンクラー部分はとっくに壊れてしまって、地上に突き出している部分も犬に折られてしまって、本当に地面から水が噴き出しているというありさま。今日一日出しっぱなしにして、雑草さんにまでたっぷり飲んでもらおうと思います。
実はこの庭、この家を数年後には立ち去る心積もりでいます。だから旅立ちの秋。
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