また巡り来たあの日

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教訓を風化させないように毎年この記事を書くことにしています。

阪神淡路大震災の日、九死に一生を得たことは何度も書きましたが、何度思い返しても本当に命拾いしたことに感謝せねば、との思いを新たにします。
感謝するのは神様と猫の初代ラックちゃん。(そう言えば二代目ラックちゃんは随分姿を見ていません...一緒に引っ越そうねと言っていたのに...)

珍しく早めに床についたその晩、早めと言っても1時頃だったか、なかなか寝付けなくて2時半頃目が覚めると、昼間散歩したのにラックちゃんが室内をウロウロして散歩をせがみました。
当時の世相は大阪の街中、真夜中に女性一人で歩いてもそれほど物騒な感じでもなかったと記憶していますが、ラックちゃんに散歩紐つけてマンションの周りを散歩。

帰って来てからは目が冴えてしまって、隣の部屋で起きていたシェフと一緒に暫くパソコンか何かして過ごし、5時頃になって近くの空き地に体操をしに出かけました。

広場で体操を終え、そろそろ帰ろうとしていた時、突然周りのビルのシャッターが一斉に開き始めたのか、何台ものトラックが行進しているのかというようなガラガラゴーゴーという大きな音が聞こえ始め、
それでも不思議に大した恐怖心はなく、「何よ、これ」と言っていると、シェフが「地震や!!」

それが不思議なことにその時シェフはものすごい揺れを感じたそうですが、私はそれ程大きな地震だとは思わなかったです。
それより思わず抱き合ったシェフの肩越しに、遙か六甲山の方角の山並みに地面から空に向かって幾筋もの稲妻のような光がピカピカッと光っているのを目を見張って見つめていました。

昨日家族の付き添いで行った病院内の散髪屋さんで髪をカットしてもらい、その話をしたのですが、その人もその時大きな音を聞いたそうです。(愛媛県内で)

広場の地面が裂けるでもなく、周りのビルからガラスの破片が降り注ぐこともなく、無事に揺れが止まったかと思うと、シェフが「津波が来る」と言って走ってマンションへ。
私は「なんで荷物置いて行くのよ~」とブツクサ言いながら、何やかんや荷物を拾い集め、別に危機感もなく帰宅。

シェフは代々大阪人のお父さんから「地震の後には必ず津波が来る」と教えられ、こういう挙に出たそうです。
地震の後はとにかく高いところに逃げろ、と教えられたそうで、その時マンションの2階の部屋を購入したことを少し後悔した、もっと高層にしておけば良かったと思ったそうです。
2階にしたのは火事などの時、飛び降りるとも降りなん、だからなのですが。

大阪浪速区には1854年安政大津波の被害を伝える碑があり、シェフの一族はその経験を風化させることなく伝えて来たという訳です。
同じく、いやもっとひどい被害を受けて来たはずの高知市生まれの私にはそういう教訓は伝わっていません。
(小学校低学年で県外へ出たせいかも知れませんが)
災害を何度体験しても、教訓として伝えようと言う明確な意思がなければ伝わることはないのだ、と知りました。
その碑文の最後はこう結ばれています。

犠牲になられた方々のご冥福を祈り、つたない文章であるがここに記録しておくので、心ある人は時々碑文が読みやすいよう墨を入れ、伝えていってほしい。

大阪の人はエライ。


その時結果的にはそんな大きな揺れを感じず津波の心配もしなかった私の体感が正しかったということでしたが、周りのビルというビルから警報ベルが鳴り響く中、部屋に帰るとドアが開かない。
玄関にごちゃごちゃ置いてあったものが倒れてふさがっていたのです。
中にいたら外へ逃げられないところでした><
マンション内にも警報ベルが響き、水道管が破裂して至るところで漏水している。
シェフが2階の元栓を閉めて皆さん水浸しの被害を免れたのです。

何とかドアの隙間から倒れてるものをどかして室内に入ると、前からメチャクチャだったおかげで目立った被害は分からなかったものの^^;;
テレビは吹っ飛び、洗い物の食器はその頃通販でよく流行っていたあの3階建ての水切りカゴごと床に落ちて殆ど割れていました。
ラックちゃん始め3匹の猫たちは隅に隠れていましたが全員無事。
さぞ怖かったことだろうと思います。人間だったら、いや猫でもきっとPTSDになっていたのかも。

私の寝床に目をやると、血も凍るような光景がそこに。
(今だったらケータイで現場写真を撮るところですが)

横のタンスの上から転げ落ちてきた木製の重いワイシャツ入れの箱が、角を枕の真ん中に突き刺す格好で落ちているではありませんか!!
あのまま寝ていたら眉間を直撃されて即死、6000人以上の方が亡くなった中でもかなり悲惨な死に方をするところでした。
死んだ本人は楽だったかも知れませんが、シェフは腰を抜かしてそのまま魂も抜けてしまっていたことでしょう。

夜中に騒いで寝かせてくれなかった初代ラックちゃんに感謝。

ラックちゃんは当時5、6才、その後大阪からラックちゃんの生まれ故郷のこちらに移り、自由に外へ散歩に出られる暮らしを満喫しましたが、FeLVに感染、早い経過をたどって一年ほどで亡くなりました。
シャムの混じった賢い女の子でした。
寝る時自分のシッポの先を吸って、いつも筆先のようなシッポをしていたラックちゃん。
その頃は猫絵を描いてなかったのでラックちゃんの絵は一枚もありません...


この時以来守っている私の教訓は、寝場所の周りの高いところに危険物を置かないこと。
いつもその季節真夜中に表に飛び出ても安心な服装で寝ること。
寝間着を着て寝ない習慣は実は30年ほど前、北京でホテル暮らしをした時以来ですが、阪神大震災後は一層その信念を強くしました。
真冬の真夜中に寝間着一枚で表に放り出されるなんてまっぴらですから。






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このページは、mojuniが2014年1月17日 17:40に書いたブログ記事です。

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